水と言葉の井戸端会議

気ままに商い中。ごゆるりとしてって下さい。

【夢】無くても生きていける

 

 

 


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あなたの『夢』はなんですか?

 

『夢』を持ちなさい

『夢』を見つけなさい

 

『夢』ってそんなに大事ですか?

 

 

私の夢は幼少期より【恩師の元からオリンピックで金メダル】しかし、その夢は恩師の急逝と共に早々に砕け散り、それからは【大好きな水泳で世界一】という『夢』と呼ばれるものを追い求めていました。

 

今あえて『夢』という言葉で表現しましたが、今まさに指を走らせながらこの『夢』という言葉に強く違和感を感じます。

 

私は夢を持っていたわけではなく

 

人より少しだけ早く

自分が心から好きだと思えること

心からやりたいと思えることに出会えただけ

 

 

 

『夢』とはなんですか?

 

 

私も幼少期から教育の場では「夢を持ちなさい」、「夢を持つことが大切」だと教えられ、夢を語る、表現する時間を過ごしてきました。そもそも夢とは決めなくてはいけない事柄なのか。

 

 

夢の果てを大人は教えてくれない

 

子供たちには『夢』を語る大人のどれだけが、その瞬間も『夢』を抱き続けているのだろうか。子供の頃に抱いていた『夢』と呼んでいたもの、例えば学校の先生、社長、お花屋さん、ケーキ屋さん、警察官。それらを叶えた当時の子供たちは今、大人になってその『夢』はどこへ向かっているのか。そこから繋がり、変化する。『夢』とはそんな単純なものなのか?

 

 

そもそも

大人になれば叶うものを

夢と呼んでいいものなのか

 

 

私も含め

 

夢を持っている人が偉いのではなく

夢を持っている人が特別なわけではない

 

ただ人より早く

自分がやりたいこと

自分が好きなことを見つけることができただけ

 

 

夢とはそもそも

自分がやりたいと思える未来であり

自分が好きだと言える物事に取り組むこと

 

そうであるなら

見つけるものではなく、見つかるものなはず

 

 

 

忘れないでほしい

 

大人たちは

夢を持つことを強要しても

叶うか叶わないの責任はとってくれない

 

つまり

夢に悩む必要なんてそもそもないということを

 

私はわたしの夢が叶わずとも今を生きている

夢が無くても明日に希望を抱き生きている

 

今の私には夢なんてものはない

あえて夢を語るなら

 

 

【美しくに死ぬこと】

 

 

もし夢に苦しむのであれば

明日の楽しみを1つ見つけてほしい

 

 

好きな子に会える

仲のいい友達に会える

美味しいケーキを食べる

買い物をする

おしゃれなカフェに行く

 

 

そんな単純で

あまりにも在り来りだけど

 

明日が楽しみになる生き方をしてほしい。

そんな単純なことの先に

 

世間が夢と呼ぶ

自分がやりたいこと

自分が楽しいと思えることに出会える

 

私はそう確信している

 

 

 

結局のところ

 

夢なんてものは死ぬときにみればいい

夢なんてものは死ぬ瞬間に叶えば儲けもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遊び=【責任】と【覚悟】

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梅雨はいずこへ

先日投稿した記事から数日

 

梅雨が去るのはあっという間

少しあの雨模様が寂しく感じます。

 

夏到来ですね

 

 

本日のブログでは

私の勝手な

価値観をただただ書き綴ります

 

ごゆるりと

 

 

私はご存知のとおり

水泳コーチを生業としているわけですが

 

水泳を教えること

コーチングすることを

私は【仕事】と言いたくないんですよね

 

.........はい。

 

また何をアホみたいなことを

みたいな顔しないで下さいね。

 

 

仕事なんですよ間違いなく

水泳コーチという職業につき

水泳を教えることでお金をもらってますから

 

間違いなく

水泳コーチ=仕事 ではあるんです。

 

でも私は水泳コーチを

水泳に関わることを【仕事】と

 

認識したくないんです。

 

 

理由は...

 

『やらなければならないこと』

 

という感情を

大好きな水泳に乗せたくないからです。

 

 

仕事には必ず

やらなければいけないことが付きます

 

当たり前ですよね

仕事ですから責任と義務があります。

 

もちろん私も

水泳に携わることに関して

責任がないという話ではありません。

 

むしろ大好きな水泳だからこそ

人一倍責任を持って行なっているつもりです

 

ただ、先程書いた内容の後者

【義務】が問題になってくるのです。

 

この義務感を

水泳に乗せたくない

 

という話です。

 

 

好きでやっている水泳業

そこにはやらなければならないこと

 

なんてものは存在せず

全てが能動的であり意識的でありたい

 

そこに受動的な要素はなく

やらされているという感情省きたい

 

それだけなんです。

 

 

そうです

これはあくまで私の我儘です。笑

 

 

でも私にとって

水泳は最高の遊びであって

遊びだからこそ本気になれるもの

 

なんです。

 

 

よくドラマや物語で

これは仕事だ!遊びじゃないんだ!

 

なんて言葉がありますが

その言葉私は納得できないし

 

大嫌いなんですよね

 

 

遊びだからこそ覚悟がうまれ

遊びだからこそ責任が芽生える

 

私はそう思っています。

 

 

だってそうでしょ?

本気で遊んでいるとき

 

誰かがルールを破ったら面白くなくなる

中途半端にしたらつまらなくなる

本気で逃げて

本気で追いかけるから楽しい

 

そこに諦めや

辞めるという選択枠はないんです。

 

でも反対に仕事は

辞めることも出来れば

手を抜くことも出来る

 

仕事という感情でしかない方が

私にとっては恐ろしい

 

 

遊びこそが最大の仕事であり

遊びだからこそ本気になれる

 

私にとっての水泳はそういうもの

 

だから【仕事】って言いたくないんです。

 

 

熱いなぁ。

 

 

 

 

 

コロナの『解夏』

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明朝は梅雨がとくに香り

夏を目前にしても少し肌寒い

 

以前にも『解夏』を題材に

書き物をしたきがしますが

まーこの季節は書きたくなるということで

 

では、ごゆるりと

 

 

早速ですが皆さんは

解夏 (げげ)という言葉

ご存知でしょうか?

 

私はこの言葉を映画で知り

その映画が好きになり

毎年この季節になると見ています。

 

映画 : 解夏

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映画の内容は

各々見て感じて頂くことにして

本題に戻ります

 

 

解夏】仏教の僧が夏に行う安居という修行が終わる時をいう。対語は結夏(修行が始まる時)。wikiで調べるとこんな感じです。

 

 

物凄く簡単に説明すると

辛く苦しい行が終わる日 です。

 

行とは仏教でいう修行

 

昔の修行僧は

とにかく歩いたそうです。

 

歩き赴き

また歩き

歩くことで世界を学ぶ

 

しかし仏教の世界では

雨期は歩くなと言われており

 

雨期とは生命誕生

草木虫が芽吹く時期

 

修行僧が歩けば

生命を踏み殺す恐れがある

 

そのため

修行僧達はこの期間

 

歩くことをやめ

近くの庵に集まり共同生活をしながら

 

雨期が終わる凡そ90日間

ひたすら座禅をしたそうです。

 

この期間を

夏安居(げあんご)と呼び

夏安居が始まる日を 結夏(けつげ)

 

そして

その行(修行)が終わる日が

 

解夏(げげ)

 

 

人生とは辛く苦しい

生きるということは簡単なことではない

 

その全ては行であり

その行が人を育て豊かにする

 

解夏とは解放を指し

辛く苦しい時期の終わりを指します

 

私はこの言葉が好きなわけですが

この言葉の真意はとても深い

 

 

解夏とは

成果に関わらず訪れるもの

 

そして人として最後の解夏は【死】

 

これまでの話を聞くと

辛く苦しい鍛錬をやり遂げ

報われた瞬間を指す。

 

そう捉えた方もいるかと思います。

もちろん間違いではありません

 

しかし解夏の言葉には

成果や結果は含まれていないんです

 

受験に例えるなら

結果が発表される日

 

そこまでに

勉学に励むため様々な時間を削り

緊張や不安、焦りも感じだと思います

 

これは正しく 行 です。

 

そして解夏

 

結果が発表された瞬間

合格だろうが不合格だろうが

 

その人はそれまでの

緊張や不安、焦りから解放される

 

 

水泳なら

大事なレースまでの期間

 

辛く苦しい練習

不安や焦り

寝れない日々が行

 

そしてタッチ板を叩き

電光掲示板を見た瞬間が解夏

 

あなたが優勝だろうが

最下位だろうが関係ない

 

それまでの

辛く苦しい日々から解放された瞬間こそ

 

解夏なんです。

 

1つの行が終われば

新たな行へと移る瞬間

 

解夏とはそういうもの

 

最後のその日まで

行は続き

解夏も訪れる

 

無情であり非情

だけども人生の真理

 

生そのものを指している

 

私はそう思っています。

 

 

コロナの『解夏』は

いつ訪れるのか

 

そのとき私達は笑えているのか

それとも既に新たな行のなかなのか

 

私達は今もなお行のなかを彷徨い

解夏を待つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【楽】の本質は困難の中に

 

 

またかなり

間が空いてしまいました

 

書くことはいっぱいあるんですが

なかなか指は進まず

ここまで引っ張ってしまいました。

 

またちょこちょこ

営業していこうかと思います

心が書きたくなったので

 

そんな久々の一発目から

重いタイトルとなっております。

 

ごゆるりと

 

 

タイトルにもあるように

今回は【楽】を求めた人生について

 

なんですが

 

本質の部分ではもちろんのこと

その過程においても

 

・楽な道を選ぶ

・楽になる道を選ぶ

 

この両者は同じように見えて

全く異なるもの

 

 

人生とは選択だ

と誰かが言ったように

 

日々さまざまな選択が現れるわけで

 

何時に起きるのか

何を食べるのか

何をするのか

どこへ向かうのか

 

まー選択の種類

選択枠は無限に発生します。

 

 

様々な選択枠のなかに

 

『楽な道』と『困難な道』

 

この両者が影を潜めています。

 

そういえば

どこかの偉人さんが

迷ったら困難な道を選べ

 

そんな風に言ったこともありましたね

 

 

人はそんな強くないですから

楽な道を選びたくもなります

 

楽したいですから

 

 

しかしここで

簡単に楽な道を選択してしまうと

 

今は確かに楽であり

その後の未来も多少楽になる?

 

のかもしれません。

 

しかしその【楽】さが

永遠に続くかといったら

 

やっぱりそんな甘くはないんですよね

 

 

必ずツケがまわってくる

この表現が一番ピッタリです。

 

人生上手くできてます。

 

結局最後は苦労するんですよ

 

楽な道を選ぶ

 

というのは

現在、そして近い未来に対する

表面上で感じる【楽さ】なんだと

思っています。

 

では

 

楽になる道を選ぶ

 

というのはどういうことか

 

その【楽さ】が起こる時期が

もっと先であり

 

あわよくば

未来永劫になる可能性さえ秘めた

そういう将来の話になります。

 

 

例えるなら保険や税金ですかね

税金はちょっと不透明感強いですが‥

 

将来の自分、まわりを

楽にしてあげるという名目で

 

払い続けている段階は

負担になりますが

 

将来の【楽さ】に向けて

お金を払っているわけですよね

 

今がキツかったとしても。

貯金なんかも同じですかね

 

 

楽になる道というのは

まさにそういうこと

 

ではないでしょうか

 

 

不確定な未来かもしれない

でもそこに可能性をみいだし

 

今に励む

今はキツイかもしれないが

 

未来必ず訪れる【楽】を求めて

 

 

 

なぜ困難な道を選択するのか

その先に必ず

報われる瞬間があるから

 

そう思うわけです。

 

 

楽ばかりしていては

絶景をみても

 

苦難を超えた者より

美しく目には映らない

 

山登りは

キツイ崖を登るからこそ

その絶景に涙するものです。

 

平坦では

その感動は味わうことは出来ない

 

 

そういうことだと思います。

 

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米川中学受験したんだって

そういえば


十数年前、実は米川 中学受験したんです。

水泳が強いところに行った方が良いと両親が考えてくれて、水泳やりながら家庭教師が毎日来てくれる。なんて贅沢なら環境のなか十数年前の今頃、入試だった気がします。

 

結果は‥
国語 80点ぐらいで
合格点を余裕に超えました。笑笑

 

算数‥11点。笑
はい。見事に落ちました。笑笑

 

その時両親に『やっぱりダメだったね!』って笑われました。今でも覚えていますが、隣の子が算数の試験の時にカンニングされ、まさかの空欄の山で試験中に『えっ??』って驚かれました。笑

 

良い思い出です

 

そして水泳バカな米川は中学で5教科合計で150点に届かないという奇跡を起こしました。ただ、今こうやって水泳の仕事に着くなかで感じることは、学校の勉強はちゃんとやっておけば良かった。と思います。

 

だって、凄く水泳に活きる基礎がそこにはあって、今更になって一から勉強しなければいけないと苦労してるからです。あの時も『全て水泳に繋がってる』って思てたらって笑っちまいます。

 

学校の勉強なんて意味がないなんて言う方もいますが、いやいや基礎だからそのままでは使わないかもしれませんが、自分が好きなことを突き詰めようと思ったら、絶対に必要です。本当に

 

って言っても、やっぱりそうならないと気が付かないものなんですよね。勉強って。やらされても覚えないし、身に持つかない、応用もできない。

 

勉強の一番難しいところですね

 

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【哀】と【愛】

 

言葉には力があり

言葉には想いが宿る

 

先人方は

誰かに想いを伝えたくて

誰かを守りたくて

 

言葉を手にし

文字を見出した。

 

 

当たり前のように存在する

言葉や文字

 

当たり前のよう活用しているが

そこに存在する

確かな想いや願いに触れることで

 

そのもの達の重みはグッと増す。

 

 

例えばタイトルにあるように

 

【哀】と【愛】

どちらも『あい』と読み

 

哀 かなしいを表現し

愛 いつくしみを表現している

 

簡単に言えば

哀はネガティブであり

愛はポジティブな表現と捉えられ

 

この2つは

対極の意味を持つ文字となる

 

ではなぜ先人方は

対極となると2つの言葉を

 

同じ『あい』という音にしたのだろうか

 

 

もちろん2つとも

同じ人物が考えたもかどうかは分からず

そこにそんな

想いや願いがあるかも分からない

 

しかし私はこの2つの

文字を見ることで【愛】の真理に近づく

 

そんな気がするわけです。

 

 

愛する想いが強いほど

その人を失った哀しみは大きい

 

このような表現は

様々なところで使われ

 

是非もなく納得できる表現

 

更には

哀しいほど愛している

 

なんてロマンチックな言葉もあります

 

 

 

同じ【あい】という音を持つ

両極端の意味を持つ2つの文字ですが

 

私はこれら2つの文字は

相反するものではなく

 

表裏だと感じるのです

 

 

愛があるからこそ哀

哀があるからこそ愛

 

どちらか一方ではなく

二つで一つ

それでいて【あい】ではないか

 

そう思うわけです。

そう願うわけです。

 

それが正しいか

そんなこと分かりません

 

これらの文字が出来た時代に

私は生まれていませんし

 

文字を起こした方々の子孫なわけでも

 

ありません。

 

 

しかし

私はそうであって欲しい

 

 

そう願いたいのです

そうすることで本当の【愛】に

 

近づける気がするから

 

 

 

ではまた

 

 

 

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『褒める』から『認める』へ

 

物凄く久々な文字遊び

ご無沙汰しております米川です。

 

書き綴らないあいだ

まーそれは色々あったわけですが

 

ふと文字を綴りたいなと思い

衝動で指を走らせています

 

 

今日は『褒める』という行為

その行為の裏にあるものについて

 

書き綴っていこうかと思います。

 

 

ごゆるりと

 

 

他者から褒められると

それは物凄く嬉しいもので

 

褒められることで

居場所を感じることも出来る

 

そんなプラスの行為です。

しかし考えてみてください

 

『褒める』という行為

 

親が子を褒める

先生が生徒を褒める

 

その根本には

上のものが下のものに行う行為

 

立場に上下

優劣がつく行為になります。

 

人を育てる過程で

『褒める』という行為は

 

一定のレベル、立場、状況によって

大きな効果を生み出すものではありますが

 

時に人をダメにする

廃人へと変えてしまう剣にもなります

 

褒めることで

満足してしまう。安心してしまう。

 

もちろんその感情は

人にとって重要な役割を担いますが

 

それだけでは

人の成長は頭打ちになる

 

 

人が求める究極のところは

認められる

必要とされる

求められる

 

自分という存在の

存在意義を感じることです。

 

『褒める』という行為では

その本質に迫ることは出来ない

 

人が求める本質をみるならば

 

『認める』という行為が

人を成長させ

更に自身を成長させる

 

 

私はそう思うのです

 

 

『認める』ということは

相手を見て、相手を受け入れ、相手を求める

 

更に相手からも求められていなければ

この『認める』という本質には届かない

 

対人関係において究極の形だと

 

私は思うわけです。

 

皆様の周りには

褒める相手がいても

 

認められる相手はいますか?

 

 

ではまた

 

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