なぜ人は人の
批判や否定をするのだろうか
つぶやきSNSである
Twitterは頻繁に炎上を始め
他者に対する
批判、否定、罵倒が飛び交う
ではそもそも
Twitterとは何を目的として
始まり
どこへ目指しているのか
今回は
そんな観点から
人が人の
批判や否定をする
心理について
書き綴ろうかと思います
ごゆるりと
Twitterとは
そもそも和訳すると
さえずり・興奮、無駄話
または
なじる人・嘲る人という意味があるそうで
要は他愛もない話をつぶやくツール
Twitter社のスローガンである
「What's Happening?(いま、なにしてる)」
そこに全てが
集約されているようにも感じます
自分自身が
自分の周りの人たちが
何をしているのか
今では著名人たちも
ツイートしていることから
会えない存在の方々とも
いま、なにしてる?で
繋がることが出来る
場所なのかもしれません
※現在「いま、なにしてる?」から
「いま、どうしてる?」に変わったらしい。
ここからは
私の個人的な考えに寄りますが
ツイートをすることで
人は自分の存在をアピール出来ます。
ある人は家族の
ツイートをみることで
遠方にいる家族の
生存確認出来ると言っていました
しかし
全ての方がツイート出来るわけではありません
羞恥心や
組織の関係上
言いたくても言えない状況
などなど
自分を偽り隠してでしか
利用することの出来ない人もいます。
そうすると
矛盾が生じるんですよね
存在をアピールする場所
そして
存在を確認する場所であるにも関わらず
存在を隠して
存在している人がいる
大きな矛盾です。
人の心は
矛盾に弱く脆い生き物
存在をアピールしていのに出来ない
存在なんてアピールしたくないと
羞恥心が強い人でも
人のアピールを見れば
駆り立てられる心は必ず芽生えます。
そこで
人はどうするのか
身を隠した状態で
自己アピールをしても
なかなか
人に気がついてはもらえません
ごくまれに
身を隠し配信していた人が
後々
すごい人になって表舞台に出る
なんてサクセスストーリー存在しますが
これは
ほぼ奇跡の確率
ほとんどの人は
気がついてもらえず
結局は
1人の場所となってしまう
そこで
もう一つ人の習性を考えてみましょう
むしろ
これは日本人特有なのかもしれないが
人は
1人になると孤独を感じ
その孤独が恐怖心を生みます。
人は人が在り
はじめて安心する
つまり何が言いたいかというと
人は集まることで安心し
そして
人が周りにいることで
自分という存在を得ることが出来る
そう勘違いしてしまうのです。
小学校の時を
思い出してみて下さい
学級会などで多く行われた
多数決
そこで孤立して人は
何故か冷ややかな目で見られ
あたかも
悪者のように扱わられる
多くの子供は
多分、無意識的に
人が多いほうが正解だと認識している
私は
少ない側の人間でした。笑
以上の話しから
あれこれ考え解れた糸を結んでいくと
人は群れを求め
存在価値を生み出したくなる。
なぜか
存在に対する矛盾が起きているから
誰かが
少数派の意見をすれば
必ず誰かが批判する。
そこに
存在の矛盾者が存在場所を見つけ
更に否定、批判する。
そして
矛盾住民の数は意外と
多いですから
多数は加速し
それに便乗する人は増える
だって人は
孤独に弱いから
これが炎上の真理だと考えています。
でもね
そもそもを考えると
Twitterの本来のスローガンは
いま、なにしてる?
個人の意見を聞き
個人の状況を知るツールなんですよ
決して群れておらず
個人の情報で動く新しい場所だったはず
その個人の発信に
いいと持った方が「いいいね!」を押す場所
炎上ボタンなんてないんです。
確かに道徳的観点から考えて
やってはいけないこと
言ってはいけないこと
それらは存在し
それは肯定してはいけないことです。
しかし
人の哲学は
その人の哲学だから
それを
否定、批判するのは
いま、なにしてる
という
その環境のスローガンから考えても
ナンセンスだと思うんですよね
人の哲学に向かうなら
そこには
自分の哲学を持っていなければ
資格を有さないと
私は考えています。
何度も言いますが
隠れて誰かを否定した、罵倒しても
存在価値は生まれず
あなたを肯定する理由にはならない
私が知りたいのは
あの人がこうしてるから
私もこうするではなく
貴方が何をしたくて
貴方が
いま、なにをしているか
それば知りたいだけです。
なんか
話しが色々飛びましたが
こんな日もいいかな